中学生の頃、「パブロフの犬」の実験の話を初めて聞いた
『条件づけ』の話として
当時の理解や自分のレベルとしては
「そんなことあるんだぁ〜」という程度の理解だった
時は過ぎ、大学の心理学の授業のとき
再び『条件づけ』の話題にが出てきたとき
「あぁ〜、知ってる知ってる」
と、もう知っていることとして
「また、その話ね。僕はもう知ってるから大丈夫」
と、たかをくくっていた
(この「自分はもう知ってる。わかってるから大丈夫」が一番キケンなのを痛感している)
就職したとき、成功哲学や心理学にハマったとき
『条件づけ』に再び出会うこととなる
全然わかっていなかったことに愕然とした
頭で理解していることと、感覚的にわかっていることとは
天と地ほどの差がある
「もう自分1人でできるなぁ」
「私はたくさん勉強してきて体験もしてきたから大丈夫」
が、人生のポーズボタンだったことを痛感した
頭で理解しているくせに
自分の人生が条件づけだらけだったことに愕然とした
親がそういっていたから
みんながそうするから
他の人はしていない
先生として
親として
それが当たり前
それが普通
すべて条件づけ!条件づけ!条件づけ!・・・
そうだからそう
そういうものだから
まいりました・・・
その後、その気づきでまた「わかった」つもりになったのでした・・・
自分はバカでした・・・
『条件づけ』という箱から出たと思ったら、まだまだ箱の中だった
その繰り返し・・・
マトリョーシカの反対な感じ
それに気づいて
箱から勇気を出して飛び出した〜
と思っていい気になっていたら、まだまだ箱の中だった・・・
最近
「自分がやりたいことをやる」
というのもエゴという箱の中だったことに気がつき
衝撃と共に涙が止まらなかった
これまでは
「人がどう思うか?や、人からどう思われるか?じゃなく
自分がどうしたいか?」
が大事だと思っていた
けど、それも箱の中だった
「自分がやりたいことをやる」ことをやめること
(人のためとか、我慢するとかいう次元ではなく)
が、生まれてきた目的に近い生き方なのかと今は思っている
文字では伝わりにくので
このあたりの話を聞いてみたいと思った方は
ぜひ、親子塾まで!
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