その頃の目標は
「速く走ること」
あの頃の僕に
「あなたはどうしたいのですか?」
と質問したら
なんの迷いもなく
なんの疑いもなく
「速く走れるようになりたい」
と答えていただろう
今ふと思い出すと
そもそも「走る」ことが前提で
目先のことしか考えていなかった
なにか
心の奥底から「やりたい」ことなんてなく
「なにが好きなのか?」
なんて考えたり、感じている暇すらなく
「僕には走ることがある」
という執着だったんだということがわかる
「自分がやりたいことなんだ」と
思い込ませていたような感覚が残っている
学校にさえ行っていれば
部活さえやっていれば
会社にさえ行っていれば
とりあえずOKみたいなのに似ていて
走ることが好きなのか?嫌いなのか?
さえ感じることなく
生まれつき、ただただ速く走れただけだった
今、感じていることは
「走ることは実は嫌いだったんだ・・・」
というもの
嫌いなことをずーっとやってきた
あるとき
走ることを
「楽しい!」「しあわせ」
と感じることができた体験がある
そう思えたのは
『感じる』ことがきっかけだった
苦しく嫌いなランニングは
自分らしくない時代
しあわせなランニングは
自分らしさを追求していった結果
感じられたもの
「そうしよう」
としているうちはたどり着けず
「自分はどうしたいか?」
は
「自分がなにを感じているか?」
が、わからないと
外の評価や、周りの意見が
「よし」
とするものを基準に
「自分は〇〇がしたい」
と、自分がしたいことだと思い込ませる結果になる
自分らしく生きる
ということをさせようとしてもできない理由はここにある
ちょうど塾長のノリさんが
ギフテッドについて書いていた
ギフテッドを見つけるときにも同じことがいえる
20歳前後に、もし僕がギフテッド教育を受けていたら
「走ること」
だっただろう・・・間違いなく
けど
今わかるのは、ギフテッドではない
ギフテッドは
自分らしさの表現だと思う
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