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〜Feel the nature of Nagano〜

県歌「信濃の国」を巡り、長野の自然を体感しよう。
 

​7月 〜東信編〜

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長野県の県歌「信濃の国」の名所を巡るべく中高生が主となって企画をした、信濃の国東信編ツアー。長野県の東信には以下が出てきます。

県歌 信濃の国

六番「嘆き給いし碓氷山 穿つ隧道二十六 夢にもこゆる汽車の道」

二番「四方に聳ゆる山々は 御岳乗鞍駒ケ岳、浅間は殊に活火山」

一番「松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地」

それぞれの場所や歌詞に関係した残された場所をめぐる形で、六番に関係する碓氷山、めがね橋、浅間山、佐久平へのツアーを計画しました。

​活動の記録

~嘆き給いし碓氷山 穿つ隧道二十六 夢にもこゆる汽車の道~

・穿つ隧道二十六 めがね橋(碓氷第三橋梁)
​めがね橋は高崎駅〜直江津駅(後の信越本線)を繋ぐため建設されました。
1891年(明治24年)に着工、1893年(明治26年)に竣工。
1963年(昭和38年)に別線の完成と共に歴史を閉じました。
​穿つ隧道の特徴としては峠ではなく片峠という点にあり、急勾配のためアプト式で走行する列車でした。



 

最初に向かったのは群馬県安中市に位置するめがね橋。めがね橋は明治25年4月に建設が始まり、12月に完成した。その時代最先端の技術を駆使し建設された。川底から全長31mの国内最大級のアーチ橋である。雄大な人工物と碓氷山の自然の融合が美しく、一目見るだけでも凛々しさと迫力が伝わってくる。険しい曲道の碓氷峠を超えると突然現れた堂々と高くそびえるめがね橋に車内で子供たちの歓声が上がった。

車から降り、参加者はめがね橋についての説明を受け、各々のペースでめがね橋の上を目指して階段を上がっていった。めがね橋の上につくと碓氷の山の自然が一望でき、その景色に感動する者もいれば、この橋の上を走っていた鉄道や人々の労力に思いをはせる者もいた。その先を進むと、信濃の国に出てくる「穿つ隧道二十六」の番トンネルに入ると子供たちは「外よりすずしいのはなんで?」「カブトムシの匂いがする!」「この壁の穴はなに?」など興味津々な姿の小学生たちや、鉄道について博識な中学生がこの場所を走っていた鉄道についての歴史や、アプト式の鉄道の仕組みなどを共有する姿が見られた。

トンネル内にはかすかに響く足音と、ひんやりとした空気が漂い、かつての鉄道の記憶を今に伝えているようだった。参加者たちは、明治時代に険しい山を越えて鉄道を通した人々の努力と工夫に思いを馳せ、「昔の時代にこんな大きなものを手作業で作ったなんて信じられない」と感嘆の声もあがった。


「高っ」「でかっ」「たくさんのレンガが使われていてすごいと思った」
​「トンネルの中が涼しくて気持ち良かった」「昔電車が本当に通ってたんだ〜」

・鎌原観音堂
鎌原観音堂は旧鎌原村(嬬恋村)に位置しているお堂です。
1783年(天明3年)の浅間山大噴火により村全体が噴火による土砂によって飲み込まれ鎌原観音堂の高い階段に上がった人々だけがが生き残りました、人口570人のうち、477人の命が失われました。
観音堂の本来の段数であるやく50段の内、残った段数は15段でした、
​鎌原村は日本のポンペイと呼ばれ、1979年に行われた発掘調査では石段の35段目の高さから女性二人の骨が見つかり片方がもう一人を背負った形で発掘されました。
その骨に焼けた後などは無く、土砂による生き埋めが死因だったと推測されています。
石段の残った15段は「生死を分けた15段」として語り継がれています。

「この下に村があったと思うと胸が痛い」「その中で鎌原観音堂だけ残ったと思うとすごい」「噴火って怖い」「でも噴火による恵みもあるんだよ」

ー嬬恋資料館ー
​嬬恋資料館は浅間山について、歴史、噴火の仕組みなどの資料を展示している。鎌原村が実際に受けた被害がどれほどのものだったのかを収録したビデオの放映に参加者は見入っていた。説明の中で、「天明の生死を分けた十五段」という言葉が出てくる。それは鎌原観音堂に続く階段は元々五十段あり、噴火によって三十五段が埋まってしまって残ったのはその十五段と鎌原観音堂のみであり、その奇跡の十五段に足を掛けることができたか否かが天明3年7月8日に生死を分けたのである。また、その時の鎌原村の暮らしがよくわかる食器などが熱や、水分によって破壊されずまだ残っていることから、噴火によって鎌原村に流れ入ったなだれは、水分を含まず、溶岩のように熱を含まない、乾いた土や石、岩などの「土石なだれ」であったことが展示された資料からわかる。参加者は犠牲者の方々の想像を絶する苦しみと、亡くなってしまった犠牲者は我々が立っている足下6メートル下で眠っていることに、その事実は参加者を唖然とさせ、心を痛める子供達もいた。その後の鎌原村の発掘調査の際に鎌原観音堂の最下段に40代と60代の2人の女性の白骨が発見され、その手足の絡み方から若い女性がもう1人を背負っていたと見られる。子供達は「あともう少しで助かったのに…」「あんな状況で他人を背負って助けようとする勇気がすごい」などの感想があった。大噴火による被害の状況は切迫し、我先にと逃げ出してもおかしくない状況の中で、他を助けようよする姿は、現代の私たちにも大切なメッセージを伝えているのであろう。

ー浅間山鬼押出し園ー
​浅間山鬼押出し園は浅間山大噴火による、溶岩流が冷え固まってできた景勝地です。
園にある岩の全ては噴火時に火口付近で固まった溶岩が冷え固まり勢い良く山の上から転がり落ちた集合地です。
園から見える浅間山には木々が少なく傾斜面が非常に滑らかです。
​その理由は、岩が転がり落ちる勢いが非常に早くその周辺の地を削り取って行ったためそのような斜面になったと結論づけられています。

​その後に向かった鬼押出し園では、浅間山の噴火によって溶岩が冷え固まりながら流れ出る特殊な現象がつくり出した独特の景観が広がっていた。子供達はまるで異世界のような景色に「少し怖い感じがする」「迫力がすごい」など様々な反応があった。鬼押出し園から見える浅間山からは噴煙が上がっており、浅間山が活火山であるということを実感した。浅間山の山腹が滑らかな様子をみて、「噴火の溶岩の勢いによって山腹が削り取られた後なのかも!」と学んだことを生かし、新たな発見をする子供もいた。遊歩道の途中、色々な形の火山岩を動物や人物に見立てたり、「火山岩に登りたい!」とアクティブに走り回ったり、ヒカリゴケを観察し「本当に光るんだ!」「マインクラフトでしか見たことない」などとそれぞれのやり方で楽しみながら自然を体験していた。鎌原観音堂や嬬恋資料館とは少し違い、噴火によって作られる自然の美しさと、趣深さを感じる場所だったと言えるだろう。

この三つの浅間山に関する場所でのツアーを通して、子供達は「浅間山によって起こった悲劇」「浅間山の作った美しい自然」の二つの相対的な視点を見ることになったが、子供達の柔軟な思考と新しいものを発見する力はどちらかの視点にとらわれず、この体験を通して様々な学びと発見を得ていた。

長野市から群馬県との県境までの移動時間計4時間の長旅となったにもかかわらず、子供たちは最後まで興奮冷めやらぬ様子だった。それもそのはず、広大かつ特色ある長野から選ばれた有数の名所であり、ひとつひとつが歴史に名を刻み、後世に伝えようと先人たちが残していったものばかりだからだ。

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